なぜ『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』(第1シーズン)は駄作だと言うのか(その2)

前回の続き。『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』(第1シーズン)をこき下ろす感想です。

何を考えているのかわからないキャラクター

この作品のメインキャラ以外は、何を根拠にどういう考えを持っているのかがさっぱり見えません。自分が見られる範囲のものから判断し、状況を考えているように見えるのはエルロンドとドゥリン四世くらいでしょうか。他は単に「シナリオライターの意図通りに話を進め、メインキャラの行動を誘導するか邪魔するだけの存在、舞台装置」になっています。例えばドゥリン三世。エレギオンにおけるドワーフとエルフの共同事業は認めておきながら、ミスリルを渡すのは「少なく採取が危険だから」と拒否。ドゥリン四世とエルロンドがミスリルの豊富な鉱床を見つけても頑なに拒否。ブロンウィンはひとつの話の中ですら、アダルに対して徹底抗戦を叫んだと思ったら後のシーンでは降伏を主張していると態度を変え、その心境変化の原因も描写されません。各キャラがほとんど信号機か標識程度の扱いです。
そしてギル=ガラドは特にわかりません。「ある場面ではストーリーの誘導役、ある場面では邪魔な上司」にしかなっておらず生きた考えを持っていないのです。「主人公の導き手」か「嫌な上司」のどちらかになりきれば、それはそれで一定の存在感や価値を出すものですが、そのどちらにもなりきれていない中途半端なキャラです。

また原作ファンの視点から言うと、ミスリルのことをドゥリン王子に打ち明けられる前に「父エアレンディルの名にかけて秘密を守る」と誓ったエルロンドに対し、ギル=ガラドは簡単にその誓いを破って秘密を話すようそそのかします。ですがトールキンの世界において「誓い(誓言)」とは、物凄く重要な意味をもつものです。

『道端に転がっていようと、それを取ろうとは思わない』と、わたしはいった。たとえわたしがこの品をほしいと思うような人間であろうと、そしてこの品が何であるかはっきり知らずにそういっていたとしても、やはりわたしは自分のいったこの言葉を誓いと考えて、これによって制約されるだろう。

指輪物語 二つの塔 ファラミルの台詞

「わしら、このしとのしてほしいこと何でもしるって誓うよ。そうよ、そうよ。」ゴクリはなおも身をよじって、踝をひっつかみながらいいました。「これがわしらを痛くしるよう。」
「誓うだと?」フロドはいいました。
「スメーアゴルは、」ゴクリは不意にはっきりした口調でいいました。大きく開いた目は不思議な光を湛えてフロドをみつめています。「スメーアゴルはいとしいしとにかけて誓う。」
 フロドはすっくと背を伸ばしました。そしてまたもやサムは主人の言葉とその厳しい声音に仰天させられました。「いとしいひとにかけてだと? よくもお前はそんなことがいえるな。」と、かれはいいました。「考えてみろ!

  一つの指輪は、すべてを統べ、くらやみのなかにつなぎとめる。

スメーアゴル、お前はこんなものに言質を与えるのか? あれはお前を離さない。しかしあれはお前よりもあてにならない。お前の言葉を曲げてしまうかも知れぬ。気をつけるがいい!」

指輪物語 二つの塔 フロドとゴクリ(ゴラム)の会話

トールキン作品では、誓いを立ててそれを守るために名誉ある死を迎える、あるいはその誓いに縛られ振り回されて自らを破滅させるキャラクターが数多く出てきます。映画『ロード・オブ・ザ・リング』にも出てきた死者の軍勢は「サウロンの軍勢と戦う」という誓いを破ったために呪いを受けて死後もこの世に束縛され続けられました。

そこでイシルドゥルはかれらの王に向かっていった。『汝は最後の王たるべし。して西方が汝の黒き主人より強きことの判明せし時は、われこの呪いを汝と汝の民とにかけん。汝らの誓言の果たされんまで、永遠の眠りにつくことなからんと。そのゆえは、この戦いの年月数えがたく続きて、終局以前に今一度呼び出さるべきためぞ。』とね。

ですが指輪戦争において、彼らはアラゴルンによって召集されサウロンの軍勢と戦ったことによって遂に誓言を果たし、呪縛から解放されて世を去りました。

「『今ぞイシルドゥルの世継の言葉を聞け! なんじらの誓言は成就せられたり。戻りて二度とかの谷間の地を騒がすことなかれ! 行きて永遠の眠りにつくべし!』とね。
「するとすぐに死者たちの王が亡霊たちの前にくっきりと姿を現わし、持っている槍を折って捨てた。それからかれは低く一礼して去っていった。するとたちまち灰色の軍勢は一人残らず突風に追い払われた靄のように撤退して消え失せた。わたしはまるで夢から覚めたような気がしたものだ。

指輪物語 王の帰還

この世界にとって“誓い”はとてつもなく重大な意味を持つ、死者すらも拘束できるものなのです。これは古典ファンタジー作品の誓言、言霊の力というものを重視しているからこそと言えますが、それに比べるとギル=ガラドの発言は……。「現代風アレンジ」で片付けていいようなものではない、原作を理解しているとは到底思えないキャラ造形です。

「原作ファンはこうすれば喜ぶだろ」という舐めた考え

小説『指輪物語』は実写映画『ロード・オブ・ザ・リング』が公開される以前から、世界的に有名な小説でした(日本ではそれほどでもないのですが)。そのため世界中に原作マニアがいるため注目していたのですが、先の「誓い」以外でも、原作についての解釈は私を失望させるものでした。
例えば「エルフ語が出れば喜ぶだろう」というあさはかな考えです。エルフ語には基本的にシンダリンクウェンヤの2種類があるのですが、クウェンヤはラテン語のようなもので、劇中で描かれた時代の中つ国では、エルフの一部の氏族が儀礼などにおいて使うだけとなっていました。ですがアダルはシンダリンとクウェンヤと、あと暗黒語までころころ使い分けています。もし海外映画に出てきた日系キャラが、突然標準語と関西弁と広島弁をごっちゃにして使ったらどう思いますか?
原作者のJ・R・R・トールキンは言語学者であり、「なぜそこで、その言語が使われるのか」ということにこだわっていましたが、『力の指輪』ではそういう背景を考えていない、薄っぺらい使い方がされています。その象徴と言えるのがノーリの本名「エラノール」です。エラノールとは『指輪物語』(『ロード・オブ・ザ・リング』)に登場するサム・ギャムジー娘の名前であり、「『偶然』同じ名前にしてやればファンは喜ぶだろう」と考えたのでしょうが、これがまたあさはかです。なぜなら『力の指輪』時代の小さい人の名が「エラノール」というのは「ありえない」と言ってもいいものです。というのはエラノール(Elanor)がエルフ語で、シンダリンのel(星)とanor(太陽)をあわせた「太陽の星」を意味する言葉であり、フロドとサムが旅の途中で立ち寄ったロスローリエン花の名に由来するものだからです。

「そうだねえ、サム、」と、フロドがいいました。「昔からのしきたりどおりにやっちゃ、どうしてまずいんだね? ローズみたいな花の名前を選ぶといい。ホビット庄の女の子の半分はこういった名前がついているんだよ。それにもっといい名前なんていったいあるだろうかね?」
「旦那のおっしゃるとおりだと思いますだ、フロドの旦那、」と、サムはいいました。「おら今度の旅で、美しい名前をいくつか聞きましたが、どれも、なんちゅうか、ふだん使うにはちいっとばかし豪勢すぎるように思いますだ。とっつぁんがいいよります、『短くしとくんじゃ。そうすりゃ、使う時に短く切りつめる必要はなくなるわい。』と。だが花の名前ちゅうことになれば、長さのことは心配することはねえです。こりゃ美しい花でなきゃなりませんわい。なぜちゅうと、ほら、あの子はたいそう美しい子だと思うんでごぜえますよ。そしてこれからますます美しくなるこってしょうから。」
 フロドはしばらく考えたあとでいいました。「そうだねえ、サム、エラノール、太陽星はどうだろう? ロスローリエンの芝生に咲いていた小さな金色の花を覚えていないかね?」
「今度もおっしゃるとおりですだ、フロドの旦那!」サムは大喜びでいいました。「それこそおらの願ってたとおりの名前ですだ。」

指輪物語 王の帰還

このやりとりを覚えている私としては「原作の素敵な命名のエピソードを汚された」とすら思えました。

シーズン2以降で回復できるのか?

というわけで、原作ファンでなくても、そして原作ファンとして見たら余計に、もちろんポリコレがどうこうとかいう視点を抜きにしても私は『力の指輪』を駄作と言います。
こうしてさんざんボロクソに書きましたが、私も面白いドラマを見たい。ナルヴィとかキールダンとかトム・ボンバディルとか、原作に名前が出ているキャラを出せば喜ばれるなんて段階はとうに過ぎ去りました(むしろ多くなるキャラを制御できるかが心配です)。まともな映像を、物語を見せて欲しいのですが、はたしてそれはシーズン2以降でかなうのでしょうか?

さて、これだけこき下ろせば、あなたも第2シーズン以降がどんなものか見たくなってきたでしょう……。