なぜ『ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』(第1シーズン)は駄作だと言うのか(その1)

久し振りにここに書くブログ記事がこんなのになるとは……

ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪』シーズン2公開前に、シーズン1を見て私が殴り書きした感想をこの機会に纏めてみたいと思います。ですが『力の指輪』を楽しんで見ている人は、以下の文章は読まないほうが良いでしょう。以下はあくまで個人的感想として、『力の指輪』が駄作ドラマであったことをこき下ろしていくものです。
ドラマを楽しんでいる人々を否定するつもりはありません、むしろその人達は幸せだと思います。できれば私もドラマを楽しみたかった。ですが私にはあのドラマは「ひどい駄作」にしか見えなかったので「ドラマを見て、言語化できないけどモヤっとしている」人ならば共感できる点があるのではないかと思います。ただし「まっとうにドラマや映画を見られない、あらを探すひねくれ者」になる可能性が高くもあるので、そこはご注意ください。

雑なシナリオ展開

とにかくまず「シナリオ展開が雑」でした。ガラドリエルは狂戦士にしか見えません。彼女が言う「サウロンはいる!」説は非常に根拠が薄弱で、「『ロード・オブ・ザ・リング』に出てくるから、サウロンが本当にいることを知っている」神の視点を持つ視聴者でなければ「何言ってんのこいつ?」と思われるのは当然です。「突然『地球の危機が迫っている!』と言いだす奴が、シナリオの都合で正しい」という、パニック映画によく出てくるタイプの狂った科学者と大して変わりません。
第1話でフォロドワイスにて「これはサウロンの印、サウロンは北にいる!」と言ったガラドリエルですが、なぜ北にいると言えるのかさっぱりわかりませんでした。実際にはあの印は南方国(モルドール)の地形を指すものだったということなので、実際にはフォロドワイスの北は全く関係なく、以後のシナリオにも出てきませんでした。ガラドリエルがわめいていたのは何だったのでしょう?
また第1話でアマン(西方)に行くことを結局拒み、海に飛び込むガラドリエル。この後彼女は難破船に拾われるわけですが、この船が来なかったら彼女はどうするつもりだったのでしょう? 大西洋にあたる大海をひとり泳いで中つ国に戻る気だったのでしょうか? このように「お前、後先考えてなかっただろ、単にシナリオライターの都合で動いただけだろ」という行動が大量に目につくのです。「ドラマチックに見せれば、辻褄が合っていなくても視聴者は気づかない」と視聴者を舐めています。確かに映像作品においてそういう側面があるのは事実ですが、何度も繰り返されればさすがに目につきます。

例えばギル=ガラドは最初からドワーフのミスリルが目当てだったということですが、これも変です。そもそもの流れは「ギル=ガラドがエルロンドに、ケレブリンボールに協力するよう命じる」→「ケレブリンボールが無茶なスケジュールを言う」→「それを実現するためにエルロンドは、ドワーフの協力を仰ぐことを提案する」というものでした。もしギル=ガラドがミスリル目当てだったなら、最初からエルロンドに「ケレブリンボールのため、ドワーフの協力を仰げ」と言えば良かったのであり、「ケレブリンボールが無茶なことを言っているから、エルロンドならその解決のために、ドワーフとの協力を言い出すだろう。そこからミスリルの手がかりが得られるに違いない」と考えるのはまわりくどすぎるし確実性にも欠けます。「裏の目的があるぞと見せかけて視聴者を惑わせよう」という脚本家の意図が透けて見えます。

他にも、病気になった牛が気になってブロンウィンたちは東の村に調査に行ったところ、現地で起こっていたのは「オークが穴を掘っていた」です。これと、黒い乳を出すという異常な病気の牛の関係は? オークが穴を掘ったせいで病原菌が紛れ込んだ? だとしたら住民もそれどころではなかったのでは? そして、テオが持っていた(なぜかオスティリスの砦を動かす鍵になっていた)剣の柄に異常に執着していたワルドレグですが、5話でテオが去ろうとする時にはあっさり見逃しています。脚本家も自分が作った設定を覚えていないのではないでしょうか。

ヌーメノールにてサウロン脅威説をあおり立てるガラドリエルに対し、当初ヌーメノールのほとんどの人々は冷淡でした。そもそも当時のヌーメノールには反エルフ的な風潮があったからです。ところが派兵が決まったところ、突然志願兵が殺到するのが異常。志願者の中から選抜されて兵士が選ばれたはずなのに、どう見ても兵役適齢期を過ぎた禿げたオッサンが混ざっているのも異常。航海時間を全く考えていない劇中の時間の流れや、兵士を乗せて大西洋クラスの海を横断するのにあの程度の大きさの船と数というのも異常。大海を数日程度であっという間に渡りきり、上陸した途端、敵の位置や規模を全く知らないはずの兵士たちが、馬を全力疾走させ正確無比にアダル率いるオークのもとに直行したのも異常。負傷して瀕死のはずのハルブランドを、直線距離で約900マイル(1450キロメートル)彼方にあるエレギオンに馬で運んだガラドリエルも異常(道中に大河あり山脈ありで、『指輪物語』にてフロド達は徒歩で3カ月かけています)。ハーフットの集落を焼き落とした怪しい一団が、文字通り画面から消えたことにハーフット達が全く触れないのも異常。ヌーメノールの船に放火してイシルドゥルに捕まったはずのケメンが、その後何事もなく国王(タル=パランティル)を描く画家の中に混じっているのも異常。これはツッコミ場所を見つけるゲームですか?

そもそもミスリルがなぜエルフを救うのかという理由付けも薄弱でしたし、ミスリルを指輪にしたところでどうにかなるのか、そして作る指輪を1つでも2つでもなく3つにすればサウロンの思い通りにならずに済むという理由が輪をかけて意味不明、理解不能というほかなく「ここで三つの指輪が生まれるというシーンに持っていけば感動させられる! それで誤魔化す」という、雑すぎる意図しか感じられません。

「展開がどっちに転ぶか判らないからドキドキするだろ? ほら、こっちだよー!」というのは海外ドラマの展開としてはよくあるものとは言えますが、それがあまりに多すぎるのです。

「セット」がすぐ判るチャチな撮影

映画『ロード・オブ・ザ・リング』を見た人は、その壮大な世界観の中にある巨大な建造物に住む人々などが印象に残っているでしょう。それに比べると『力の指輪』は実に“チャチ”でした。
ヌーメノールやカザド=ドゥームなど、冒頭のシーンだけはCGを使った広い空間を見せていますが、あとはとにかく「ああ、これはセットで撮影しましたね」というのがすぐにわかるチャチさです。典型的なのがドゥリン王子の部屋。当時のモリアは非常に繁栄しており、冒頭ビジュアルでそれを出したはず……なのですが、その後に出てきたドゥリン王子の部屋は、いかにも「洞穴の家」でした。『ロード・オブ・ザ・リング』の、フロド達が住んでいた袋小路屋敷を思い出してみてください、あそこには大量の小物が溢れかえっていました(これは家主の性格もありますが)。それに比べるとドゥリン王子の部屋などは実に殺風景です。
「映画とドラマを比べるのは酷」と思われるかもしれません。ですが例えば『ロード・オブ・ザ・リング』は、ホビット庄の外の風景はロケ地に組み立てられたセットであり、袋小路屋敷の中はスタジオに作られたセットです。つまり撮影した物理的な場所は全く違っていました。それを違和感がないよう見事に編集で繋げています。ですが『力の指輪』はそのような工夫が抜け落ちているため、「セットの小ささ」「貧弱な撮影テクニック」があちこちで感じられました。
映画でもセットの小ささなどに悩まされることが多々ありますが、カメラワークや編集によって観客にそれを感じさせないように作るものです。ですが『力の指輪』では画面を見ているだけで「あ、このセットはこれくらいの大きさで、カメラはこの辺にクレーンで置いてあるのね。手前側はセットを組んでおらずスタッフやカメラのスペースになっているから映さないんだな」と、ほとんど想像できてしまいました。

いい加減な演出

先に書いたとおり雑なシナリオが雑で、それを誤魔化せない演出が目につきましたが、アクションシーンもさっぱりでした。「良かった」と思ったのは第5話のヌーメノールにおけるガラドリエルの殺陣くらいでしょうか。あとは「とりあえずハイスピード撮影(スローモーション)使っとけ」というような撮影テクニックの無さや、役者のアクションの下手さを感じました。
南方国の戦闘シーンはひどいものでした。オークに襲撃され負傷したブロンウィンをアロンディルたちは治療しようとします。「あの出血の仕方なら血管(しかも大動脈レベル)が切れている。皮膚の表面焼いたところでどうにもならない」というのは、まあ見過ごすとしても、そうやってブロンウィンやテオが必死になって治療している間、皆が立てこもっている建物を包囲しているオークの攻撃が完全に停止しているのです。まっとうな演出家なら、オークの攻撃とブロンウィンの治療を同時に映してさらに緊迫感を煽るはず。
その村に突撃したヌーメノール軍ですが、あんな狭い村に騎兵突撃してどうするのでしょう? 小回りがきかない、馬の俊足がいかしにくいところに騎兵突撃は危険というのは軍事的にも当然ですし、馬を使った撮影の良さ、スピード感も出せません。『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』におけるロヒルリムの突撃を思い出してください、あのシーンをオマージュしているのかもしれませんが、むしろスケールの小ささはっきり露呈する形になってしまっています。そしてあんな小さな村を開放したくらいで、大はしゃぎしているヌーメノール軍……。

後半に続きます。