#author("2023-08-04T16:48:36+09:00;2023-06-17T19:00:50+09:00","","")
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-ゴンドール8代目の王、タロスタール・ローメンダキル一世(Tarostar Rómendacil I)については[[ローメンダキル一世]]を参照してください。
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* ローメンダキル二世 [#bed3c75a]
** 概要 [#Summary]

|~カテゴリー|[[人名]]|
|~スペル|Rómendacil II|
|~その他の呼び名|ミナルカール(Minalcar)|
|~種族|[[人間]]([[ドゥーネダイン]])|
|~性別|男|
|~生没年|[[第三紀]](1126)~1366年(享年240)|
|~親|[[カルマキル]](父)|
|~兄弟|[[カリメヘタール>カリメヘタール(カルマキルの息子)]](弟)|
|~子|[[ヴァラカール]](息子)|

** 解説 [#Explanation]

|>|>|~[[ゴンドール]]の王|h
|CENTER:第18代&br;[[カルマキル]]&br;1294~1304|CENTER:第19代&br;''ローメンダキル二世''&br;[[第三紀]]1304~1366年(62年間)|CENTER:第20代&br;[[ヴァラカール]]&br;1366~1432|

[[ゴンドール]]の19代目の王。本来の名は''ミナルカール''。非常に元気旺盛な人物として知られる。
1240年、ミナルカールは伯父である当時の王[[ナルマキル一世]]により、[[摂政]]に任じられた。以後ミナルカールはナルマキルの在位中と、ナルマキルの死後に王となった父[[カルマキル]]の在位中、二代に渡って王の名の下に摂政として実際に[[ゴンドール]]を統治した。

ナルマキルの治世に[[東夷]]の攻撃が再び始まり、1248年にミナルカールは大部隊を率いて出陣した。彼は[[ロヴァニオン]]と[[リューンの湖]]の間の地で[[東夷]]の大軍勢を破り、湖の東にあった東夷の野営地と居住地を全て破壊した。この時、彼は「東の勝者(East-victor)」を意味する''ローメンダキル''を名乗った((同じく[[東夷]]を撃退した[[ローメンダキル一世]]に倣ったと思われる))。
ナルマキルの治世に[[東夷]]の攻撃が再び始まり、1248年にミナルカールは大部隊を率いて出陣した。彼は[[リョヴァニオン]]と[[リューンの湖]]の間の地で[[東夷]]の大軍勢を破り、湖の東にあった東夷の野営地と居住地を全て破壊した。この時、彼は「東の勝者(East-victor)」を意味する''ローメンダキル''を名乗った((同じく[[東夷]]を撃退した[[ローメンダキル一世]]に倣ったと思われる))。

帰国すると、彼は直ちに北の国境である[[白光川]]まで至る[[アンドゥイン]]西岸の防備を強化した。また他国人が[[エミュン・ムイル]]より下流へアンドゥインを下ることを禁じ、[[ネン・ヒソエル]]の入り口に[[アルゴナス]]の柱を建設した。
兵力の確保と[[北国人]]との繋がりを強化するため、多くの北国人をゴンドール軍に編入し、時には軍の高い地位を与えもした。特に東夷との戦いで功績のあった[[ヴィドゥガヴィア]]を重用し、1250年には彼の元に自分の息子[[ヴァラカール]]を大使として派遣した。これには将来ゴンドール王となる息子と北国人を馴染ませておく意図があったが、ヴァラカールがヴィドゥガヴィアの娘[[ヴィドゥマヴィ]]と結婚したのは予想外だった。1255年に生まれたヴァラカールとヴィドゥマヴィの息子[[エルダカール>エルダカール(ヴァラカールの息子)]]の存在は、後にゴンドールの内乱([[同族の争い]])を招いた。

1304年にローメンダキルは19代目の[[ゴンドール]]王に即位した。王としての在位は62年間だったが、前二代の[[摂政]]であった期間を含めると、126年間ゴンドールを統治した。

** コメント [#Comment]

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