ローハン

概要

カテゴリー地名
スペルRohan
その他の呼び名マーク(Mark)、騎士国リダーマーク(Riddermark)、ロハンド(Rochand)

解説

カレナルゾンに地にある人間の王国。王都はエドラス。緑地に疾駆する白いを紋章とする。
ローハンとはゴンドール人がこの国を呼ぶときに使う、「馬の国(Horse-country)」を意味するシンダリンでの名*1。ローハンの人間は自らの国を「乗り手の辺境」の意である騎士国リダーマーク、あるいは単に「辺境」の意であるマークと呼んでいた(ただしこれらは古英語に訳された呼び名である)。

その国民はロヒルリムと呼ばれ、と心を通わせる優れた乗手として知られていた。
かれらは元々エーオセーオドと呼ばれ、アンドゥインの谷間の上流域や源流域に住んでいたが、2510年のケレブラントの野の戦いゴンドールを救援した返礼としてカレナルゾンの地を割譲されてその地に移り住む。以来、ローハンは独自の言語と文化を保持しつつ、ゴンドールの強力な同盟国であり続けた。

ロヒルリム(ローハン人)

かれらは自らのことを「エオルの家の子」とも呼んでいた。ロヒルリムの項目を参照。
自分達の古くからの言葉であるローハン語を保持し続けており、人名や地名などはローハン語で独自の名前を付けた。ロヒルリムの支配層は西方語を解した。

ローハンの軍制

エーオレドの項目を参照。

ローハンの国土

白の山脈の北側にあるゴンドールの旧領土カレナルゾンの一帯を国土とする。
北の国境は霧ふり山脈南端のナン・クルニールからファンゴルンの森の縁と、白光川だった。東の国境はアンドゥインの川筋、エミュン・ムイル西端の崖(東壁)、エント川の三角州で、メリング川がゴンドールとの国境だったが、後にフィリエン森も実質的に含まれた。
南は白の山脈沿いで、そこにある谷間や渓谷も国土に含まれた。西の国境はアイゼン川とアドルン川だった。

ローハン平原と呼ばれる肥沃な平野部と、白の山脈の山麓である峻険な峡谷部に大別できる。普段のロヒルリムは各領地に分散して住み、平野部で農耕や牧畜を行っている。戦時になると、防衛に便利な山麓の砦に拠った。

登場する地名

ローハンの歴史

建国

ローハンの人間であるロヒルリムの祖先は、リョヴァニオン北方に住むエーオセーオドである。彼らの国主はゴンドールエルダカールの親戚であるリョヴァニオン王家の末裔と言われる。エーオセーオドは第三紀1899年のゴンドール王カリメヘタール、1944年のゴンドール王エアルニル二世がそれぞれ馬車族と戦ったとき、ゴンドールと同盟を結んで戦った。
2510年、オークおよび東夷の一派バルホス族(その背後にはドル・グルドゥルの影があった)の脅威にさらされたゴンドール執政キリオンは、僅かな望みを抱いてエーオセーオドの国主エオルの元に、援助を求める使者を送った。知らせを受けたエオルは、ゴンドールが敗れて闇の脅威が広がることを恐れ、ゴンドール救援のために参戦、ケレブラントの野の戦いで勝利を収める。
キリオンはこの謝礼および、ゴンドール北方の守りになることを期待して、人口が希薄となっていたカレナルゾンの土地をエオルの民に割譲する。自分たちの土地を手狭に感じるようになっていたエーオセーオドは、北方に残していた妻子や家財を持ってこさせてカレナルゾンに移住し、エドラスを王都とした騎士国リダーマーク(マークとも呼称される)を建国、エオルが初代の王となった。彼らの国はゴンドール人にはローハンと呼ばれ、国民はロヒルリムと呼ばれるようになった。
エオルはエオルの誓い(Oath of Eorl)と呼ばれる誓言を立て、将来にわたるゴンドールとの同盟国となった。ロヒルリムはゴンドールの文化の一部を取り入れたが、おおむね自分たちの伝統を守ってカレナルゾンで暮らすようになる。

東夷および褐色国人との戦い

だがローハンの建国は、この土地を狙っていた東夷褐色国人ダンレンデイングにとっては不都合なことであった。ロヒルリムはたびたび彼らと戦うことになり、エオルも2545年に東夷との戦いで戦死した。
第三紀2758年から翌59年、9代目の王ヘルムの時代にローハンは、東夷および褐色国人に東西から攻撃を受け(大侵略)、国土は蹂躙され、エドラスも占拠される。その後ゴンドールの救援もあり、ヘルムの死後王位を継いだ、ヘルムの甥フレーアラーフはエドラスを奪還した。ここにローハン王の第一家系は終わり、フレーアラーフからマーク王家第二家系が始まる。だが長い冬の影響もあって国力は大いに疲弊した。
そのため、2759年にゴンドールの執政ベレンは、ゴンドール領のまま残されていたアイゼンガルドの管理をサルマンに委ね、オルサンクの鍵をサルマンに渡した。当初サルマンはゴンドールおよびローハンの同盟者として働き、ロヒルリムも助けられた。

だがサルマンは指輪の力を求め、またオルサンクのパランティールを使用したことによりサウロンの目にとらえられて堕落。密かにアイゼンガルドにオークウルクを集めて独自の勢力を築き、褐色国人と結託。またローハンのグリーマを間者として取り込み、ローハンを侵食するようになる。

指輪戦争

グリーマは、当時の王セーオデンに毒の言葉を吹き込んで王の気力を萎えさせ、またアイゼンガルドの脅威を過小評価するよう誘導。その一方でローハンの勢力とアイゼンガルドの勢力との衝突が発生し、第三紀3019年アイゼンの浅瀬の合戦にて、セーオデンの息子にして王位継承者のセーオドレドは戦死する。さらにグリーマは、命令を無視してアイゼンガルドのオークを追撃し、またグリーマの裏切りに気づきつつあった、セーオデンの甥エーオメルを投獄させた。
そこに、アラゴルン二世レゴラスギムリと共にガンダルフがやってくる。ガンダルフはセーオデンを癒してグリーマの裏切りを暴き、グリーマは追放される。セーオデンは釈放したエーオメルを王位後継者に指名すると、ガンダルフ、アラゴルンらと共に、アイゼンガルドの軍勢と戦うため西へ軍勢を進めた。
その結果発生した角笛城の合戦で、アイゼンガルド及び褐色国人ダンレンデイングの軍勢にセーオデンは勝利した後、エントによって破壊されたアイゼンガルドを訪れてサルマンと対面。セーオデンはサルマンの甘言を拒絶し、アイゼンガルドはエントによって包囲、監視されることになった。

西方の脅威が排除されたことで、セーオデンはガンダルフとアラゴルンの助言に従い、東征の準備を始める。烽火赤い矢によるゴンドールからの救援要請を受け取ったセーオデンはエオルの誓いを守り、率いられる限りの兵を率いミナス・ティリスへ向けて東進、ペレンノール野の合戦にてゴンドールの軍勢と共に戦い、モルドールの軍勢に対して勝利を収める。
だがこの戦いでセーオデンは戦死。生き残ったロヒルリムの兵を率いることになったエーオメルは、アラゴルン、ガンダルフらが率いるゴンドールの軍勢と共に西軍として黒門の戦いに参加。切望的な戦いの最中、指輪所持者一つの指輪を破壊したことによりサウロンは滅び、モルドールの軍勢は総崩れとなって、勝利を収めた。

指輪戦争後

アラゴルン二世再統一された王国のエレッサール王として即位したが、ローハンはロヒルリムの領土として残され、エーオメルがマーク第三家系の王となってそのまま統治することになり、またエレッサール王とエーオメル王はエオルの誓いを新たにした。こうしてローハンは、かつてない平和を享受することができた。また燦光洞には、角笛城の合戦の最中にこの地に魅せられたギムリエレボールドワーフの一部を率いてやってきて領主となり、ローハンやゴンドールで見事な仕事を行った。
一方エレッサール王は東方や南方において、なおもサウロンの残党と闘わなければならなかったが、エレッサール王の王旗の側には常にロヒルリムの王旗があり、戦場をロヒルリムの騎兵が駆けたという。

マーク(ローハン)歴代の王

名前在位
初代(第一家系)青年王エオル第三紀2510~2545 (35年間)
2代ブレゴ2545~2570 (25年間)
3代長命王アルドル2570~2645 (75年間)
4代フレーア2645~2659 (14年間)
5代フレーアウィネ2659~2680 (21年間)
6代ゴールドウィネ2680~2699 (19年間)
7代デーオル2699~2718 (19年間)
8代グラム2718~2741 (23年間)
9代槌手王ヘルム2741~2759 (18年間)
10代(第二家系)ヒルドの息子フレーアラーフ2759~2798 (39年間)
11代ブリュッタ2798~2842 (44年間)
12代ワルダ2842~2851 (9年間)
13代フォルカ2851~2864 (13年間)
14代フォルクウィネ2864~2903 (39年間)
15代フェンゲル2903~2953 (50年間)
16代センゲル2953~2980 (27年間)
17代セーオデン2980~3019 (39年間)
18代(第三家系)エーオメル・エーアディグ3019~第四紀63 (65年間)
19代エルフウィネ第四紀63~?

ゲーム『ロード・オブ・ザ・リングス オンライン』における設定

エント川を境にして、西ローハン(ウェストエムネト)と東ローハン(イーストエムネト)という2つの大きなエリアに区分けされている。

各地域の町や村落には周辺一帯の土地を領有する領主(Thane)がいて、都から派遣された行政官(Reeve)が統括するという政治体制を敷いている。
Thaneはアングロ・サクソン時代のイングランドにおいて主君から領地を与えられ、行政や軍事の運営を担った者たちの事。階級としては貴族と平民の中間に位置し、日本史上における国衆や地頭に相当する。対してReeveはより大きな町や州全体の行政・司法を監督する役目を負った官吏で、国王の直臣である彼らは国司や守護・藩主に相当する。
また、エーオレドに属さない地方の軍団を統率するAldorという司令官職も存在する。

Rohan_Full.jpg

コメント

最新の6件を表示しています。 コメントページを参照

  • 日本も含めた現実世界の騎兵は小柄だけど頑丈で耐久力のある馬を使ってたけど、ローハンの騎士たちは当たり前のようにペルシュロンとかシャイヤー並の重量種を飼育して乗りこなしてたとかだったりして。それでオークたちは蹴散らされて、ハラド騎兵(現実で言うアラブ種辺り?)もパワーで押し負けたとか。 -- 2023-01-18 (水) 01:42:15
    • 第二次ウィーン攻防戦でも存分に活躍し、教授にもインスピレーションや影響を与えた可能性があるポーランドの有翼騎兵(フサリア)はご存知の方も多いように世界最強騎兵の一角ですが、使用していたのはアラブ種の品種改良版とされているので、無理して重量種を用いなくとも鍛え上げられた騎馬技術と用兵術、軍としての一体感があれば無敵に近い力を発揮できると思います。
      ローハンは白人系国家でありながら、半ば騎馬民族国家ですから飼育していた馬達も実用性が最優先されたでしょうし。 -- 2023-01-18 (水) 02:19:07
    • ドル=アムロスの騎士団の方がありそう。 -- 2023-01-18 (水) 19:02:03
  • 調べたらチンギス・ハン時代のモンゴルが人口80万に対して、総兵力が15万人くらいだったと出た。五分の一が兵という事。これがローハンにも適用できるなら人口の下限値は5万人くらいになるから、エドラスの頁で言われてた10万以下は可能性として無くはなさそう。ロヒアリムが半分定住民なのを考えなければ。 -- 2023-10-17 (火) 22:04:37
    • 手元にあるモンゴル帝国関連や軍編成の書籍を確認しましたが、モンゴル帝国時代の軍戸制度から、後代にはいわゆる蒙古八旗とも呼ばれるそれらの軍制はモンゴルの以下の特性によって可能になるものです。ローハンに当てはめるのはちと乱暴かと。
      ・最も大きい単位では『ウルス』と呼ばれる軍/共同集団から万人隊/千人隊と呼ばれるものまで、いわゆる常備軍ではなく普段は共同で遊牧活動を行っている
      ・その際の遊牧活動は馬だけでなく羊など生活家畜や家族、家財道具や資産も含め大移動を行う
      ・遊牧民の生活自体が、遊牧/狩猟/共同生活を通じ、生産活動と軍事体系とが一体化している
      ・モンゴルはじめ有力な遊牧民は、周辺の農業国やオアシス交易都市からの貢納をルール付けている
      ・モンゴル軍には征服先の被支配民族から徴収した巨大な別働隊や補給網が存在した
      上記が期待できないローハンの軍制には、ある程度のそれを支える生産人口が要ると思われます。
      ただそれは数十人に一人が騎士、という程度ではないかと。
      一番金のかかる騎馬を騎士たち本人が育成してますからね。 -- 2023-10-17 (火) 22:40:11
  • 遠征に出れる騎兵が6000で全土の総数が1万2000以上って中世はもちろん、ローマ時代とか同じ頃の中国でもそうそう揃えられるものじゃないよね。 -- 2023-10-19 (木) 20:01:43
    • だが騎馬遊牧民だと楽々揃えられちゃうというね…。
      歴史上、ローハンを味方につけれたのは疑いなくゴンドール史上で最高の幸運の一つだろうな。 -- 2023-10-19 (木) 21:14:27
      • 中国は全土の軍団を合計したら10万単位にはなるだろうけど、ローハンと同じ面積内での数は下回るんじゃないか? -- 2023-10-19 (木) 21:30:03
        • なぜ俺のコメントにそのコメントなのかよくわからないが…。
          まあそうなんじゃないでしょうか…。 -- 2023-10-20 (金) 02:03:00
          • 間違えただけ -- 2023-10-20 (金) 11:11:47
    • 日本も500騎くらいを20~50騎くらいに分散して運用するのが実際だった上、西国では下馬して戦う方が多かったらしいしね。 -- 2023-10-19 (木) 21:25:51
    • ノルマンコンクエストの頃にウィリアム征服王が率いていた騎兵部隊が推定2000~3000人だとか。イングランドがノルマンディー公国の2倍以上3倍以下ぐらいの面積だから、そのイングランドより少し大きい程度と推定されてるローハンで6000の騎兵を動員できるというのは単純計算でも妥当な数字っぽい。 -- 2023-10-21 (土) 01:08:01
  • モンゴルにローハン遠征軍と同じく5000~6000人の戦隊がいたとして、騎兵は何パーセントになりそうですか? -- 2023-10-20 (金) 21:17:48
    • それは条件によります。モンゴル帝国内のたとえば千戸隊からのみの徴集編成であれば騎兵は100%です。そもそも騎馬民族ですから。
      ただ実際には征服過程で非征服民による軍団が比率をどんどん増しており、彼らの主体は歩兵ですからそれをどれだけ含めるか次第です。
      ですので、その答えは質問者がいつの時代のどこをを、どういう状況で想定しているかにより全く変わってきます。 -- 2023-10-20 (金) 23:21:08
  • エドラスのページでの考察を踏まえるに、数千人単位の大きな町が仮にあるとすれば、街道とエント川の下流域が含まれてゴンドールの国境に近いイーストフォルド、ロヴァニオンから流れてくる人と物の経由地になるウォルド、東西エムネトを結ぶエント浅瀬の近く、の何処かか。
    ヴァイキング時代のスカンディナヴィアで最大級の交易拠点がヘゼビューの1500人程度、大き目の入植地だとダブリン(4~5千人)もあるが、
    戦乱続きで周辺人口も軒並み過疎化してる上に海からも遠い立地で10世紀頃の北欧とイングランドがどこまで参考になるかは分からない。中東欧の内陸にある町の幾つは5千人越えてるけど、ミナス・ティリスが3万いるかどうかなのを考えると苦しい。ローハンがヴァイキングに近い少人数単位での居住形態らしい事を考えるとヘゼビューが一番近い数値で、何か他に人が集まる特殊な条件が揃っても倍の3,4千人程度が上限と見た。 -- 2024-01-25 (木) 21:47:51
    • イングランドの場合、内陸部のオックスフォードがノルマンコンクエスト前後の時点で2千5百人と5千人で二通りの説があった。当時ルンデン・ウィンチェスターと並ぶ最大都市のヨルヴィック(ヨーク)が8千人以上、でも他の二つよりは海から離れてるけど内陸と呼べるかどうかは判断に困る微妙な位置。 -- 2024-01-26 (金) 03:34:24
    • 川沿いは輸送に便利なだけじゃなくて物を捨てるのにも有利だからね。捨てて良いのは自然分解できる物に限るけど...... -- 2024-01-28 (日) 00:05:48
  • デーン人のイングランド襲来がローマ時代の都城への再定住を促した例を見るに、山から遠い東西エムネトの平野部ではカレナルゾン時代の城塞とか町を避難場所として利用してるのではないかと。同等規模の村落が同等程度の距離間で古城を取り囲むように分布してるという感じ -- 2024-01-27 (土) 15:45:30
    • まあ、中世はどこもそうだったんだろうけど。 -- 2024-01-27 (土) 15:48:56
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