ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン †
概要 †
カテゴリー | 関連人物・組織・団体 |
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スペル | John Ronald Reuel Tolkien |
生没年 | 1892年1月3日~1973年9月3日(享年81) |
解説 †
『ホビットの冒険』『指輪物語』『シルマリルの物語』の原作者。
オックスフォード大学教授。比較言語学者・文献学者(Philologist)。専門は古英語。
妻エディスとの間に三男一女を残し、三男クリストファーは父の死後その作品草稿を纏める仕事を引き継いだ。
彼と妻エディスの墓石には「ベレン」「ルーシエン」と刻まれている。
イニシャルの“JRRT”を組み合わせたものをモノグラムとして使っているが、それが漢字の“束”に似ていることから、欧米で一部のコンピューターユーザーが、最近では日本のネット上でも「束教授」と表現されることもある。
遺族公認の伝記としてハンフリー・カーペンターによる『J.R.R.トールキン 或る伝記』がある。
2本の伝記映画の企画が上がり*1*2、そのうち1作が『トールキン 旅のはじまり(原題 TOLKIEN)』のタイトルで公開された。もう1作の『Middle Earth』の企画については情報が途絶えている。
略年譜 †
西暦 | 年齢 | 出来事 |
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1892 | 0 | 1月3日、南アフリカのブルームフォンテンで、父アーサー、母メーベルの長男として生誕。 |
1894 | 2 | 2月17日、弟ヒラリーが生まれる。 |
1895 | 3 | 母、弟と共に英国に帰省。 |
1896 | 4 | 父アーサーが南アフリカで死去。母子はセアホールの田園に4年間暮らす。 |
1900 | 8 | 母子、カトリックに改宗、家族の支援を失う。キング・エドワード校に入学。 |
1902 | 10 | 引っ越しとともにセント・フィリップス校に転校。 |
1903 | 11 | セント・フィリップス校を退学、奨学金を得てキング・エドワード校に再転入。 |
1904 | 12 | 母メーベル病み、11月に死去。兄弟はフランシス・モーガン司祭に後見される。 |
1908 | 16 | 下宿先でエディスと出会う。 |
1909 | 17 | エディスとの仲がモーガン司祭に知られる。オックスフォードの奨学金試験に失敗。 |
1910 | 18 | モーガン司祭にエディスとの絶交を命じられ、従う。オックスフォードの奨学金試験に合格。 |
1911 | 19 | スイス旅行。オックスフォードに入学。 |
1913 | 21 | モーガン司祭の後見から独立。エディスと再会。不幸なフランス旅行。 |
1914 | 22 | エディスをカトリックに改宗させ、婚約。「宵の明星、エアレンデルの航海」を書く。第一世界大戦勃発。 |
1915 | 23 | 優等で学位を取得。 |
1916 | 24 | 3月22日、エディスと結婚。6月、フランス出征、ソンムの戦いに従軍。11月、塹壕熱を患いイギリスに送還。エディスと再会。 |
1917 | 25 | 「失われた物語の書」を書き始める。11月16日、長男ジョン誕生。 |
1918 | 26 | 第一世界大戦終結。オックスフォードに戻り、「OED」編集スタッフとなる。 |
1920 | 28 | リーズ大学英語講師となる。リーズに転居。10月22日、次男マイケル誕生。 |
1924 | 32 | 新設されたリーズ大学英語学教授となる。11月21日、三男クリストファー誕生。 |
1925 | 33 | 『サー・ガウェインと緑の騎士』刊行。オックスフォード大学アングロサクソン語教授となる。オックスフォード・ノースムア通りに転居。 |
1926 | 34 | C・S・ルイスと出会う。コールバイターズ(後のインクリングズ)結成。 |
1929 | 37 | 6月18日、長女プリシラ誕生。 |
1930 | 38 | 『ホビットの冒険』の原案となる物語を書き始める。 |
1936 | 44 | 「ベオウルフ」についての記念碑的講演。『ホビットの冒険』の刊行が決まる。 |
1937 | 45 | 『ホビットの冒険』刊行。続編『指輪物語』を書き始める。 |
1939 | 47 | 「妖精物語について」講演。第二次世界大戦勃発。 |
1943 | 51 | クリストファー、空軍に。執筆中の『指輪物語』原稿を逐一彼に送る。 |
1945 | 53 | 第二次世界大戦終結。オックスフォード大学英語英文学教授となる。 |
1949 | 57 | 『農夫ジャイルズの冒険』刊行。 |
1950 | 58 | アレン・アンド・アンウィンに『シルマリルの物語』刊行を拒否され、コリンズ社からの『指輪物語』刊行を模索。 |
1952 | 60 | コリンズ社と関係解消。アレン・アンド・アンウィンと関係修復。 |
1954 | 62 | 『指輪物語』「旅の仲間」「二つの塔」刊行。 |
1955 | 63 | 『指輪物語』「王の帰還」刊行。 |
1959 | 67 | 教授職引退。 |
1962 | 70 | 叔母ジェーン・ニーヴの要望で『トム・ボンバディルの冒険』刊行。 |
1964 | 72 | 『木と木の葉』(ニグルの木の葉と妖精物語について)刊行。 |
1965 | 73 | アメリカで『指輪物語』海賊版騒動。日本語版『ホビットの冒険』刊行。 |
1967 | 75 | 『星をのんだ かじや』刊行。 |
1968 | 76 | エディスの療養のため、ボーンマスに転居。 |
1971 | 79 | 11月29日、妻エディス死去。 |
1972 | 80 | オックスフォードに戻る。CBE爵位を授受。オックスフォード名誉文学博士号を授受。日本語版『指輪物語』刊行開始。 |
1973 | 81 | ボーンマス訪問時に体調悪化。9月2日、胃潰瘍による急性出血により死去。 |
1975 | 日本語版『指輪物語』刊行完了。 | |
1977 | 『シルマリルの物語』刊行。 |
トールキン、エディスの夫婦は同じ墓に葬られ、その墓銘には生前のトールキンの意向を受けて以下のように記されている。
EDITH MARY TOLKIEN
LUTHIEN
1889–1971JOHN RONALD
REUEL TOLKIEN
BEREN
1892–1973
名前について †
トールキン家はドイツのザクセン地方に出自がある一族であり、トールキンの苗字はドイツ語で「向こう見ず」を意味するトルクーン(Tollkühn)が由来であるという。
名前のジョンは父方の祖父の名から、ロウエルは父アーサーの洗礼名から取られた。ロナルドは母メーベルがこう呼ぶことを希望したものだが、先祖から取られた名ではなかった。両親ともそれぞれが提案した名にこだわったため、結局ジョン・ロナルド・ロウエルという長い名前がつけられることになった。
家族からはロナルドと呼ばれた。だが、トールキン自身はこれに違和感を持ち、自分の名ではないように感じていたという。『或る伝記』には確かに周囲の人々は、彼をなんと呼んだらいいのか、かすかな困惑を覚えたらしい。とある。
知人からはおおむね苗字のトールキンと呼ばれていた。ごく親しい学友はジョン・ロナルドと呼んでおり、C・S・ルイスなど後年の親しい友人は「トラーズ (Tollers)」というあだ名で呼ぶこともあった。
一般には「J・R・R・T」と呼ばれた。前述のとおりトールキン自身もこの頭文字を組み合わせたモノグラムを用いており、『或る伝記』はたぶん、結局、この四つの頭文字が、この人間を表わすのには、一番よいもののようである。と評している。
家族について †
父はアーサー・トールキン(Arthur Reuel Tolkien 1857-1896)。母はメーベル・サフィールド(Mabel Suffield 1870-1904)。2歳下の弟にヒラリー(Hilary Arthur Reuel Tolkien 1894-1976)がいる。
父アーサーは銀行家で、妻メーベルと共に当時イギリスに領有されていた南アフリカのブルームフォンテーンに赴任していた。アーサーはトールキンが英国に帰省していた3歳の時、南アフリカで病死してしまい、トールキンは父の記憶をほとんど持っていなかったという。
母メーベルは聡明で、息子達の家庭教師を務めるなどしてトールキンに学問・創作への道を開いた。だが国教会徒であったサフィールド家の反対を押し切ってカトリックに改宗したために家族から援助を打ち切られ、トールキンが13歳の時に生活苦から糖尿病を患って病没した。トールキンは母のことを一種の殉教者と感じていたという。
弟ヒラリーとは生涯仲が良く、晩年まで彼が経営する農場を訪問するなどしていた。
叔母のジェーン・ニーヴ(Emily Jane Neave 1872-1963)はメーベルの妹。彼女はセアホールに「バッグ・エンド」と呼ばれる農場を持っており、これが袋小路屋敷の名の由来となった。ジェーンは母子がサフィールド家の支援を失った後もかれらとの親交を続け、トールキンは後に彼女の要望で『トム・ボンバディルの冒険』を発表している。
後見人フランシス・モーガン(Francis Xavier Morgan Osborne 1857-1935)は、メーベルの死後兄弟を養育したカトリック・オラトリオ会の神父。愛情豊かな人物だったが、トールキンとエディスの恋愛(後述)を知った時には反対し、トールキンが奨学金試験に失敗したこともあって二人の断交を言い渡すなどした。トールキンは成人し被後見を脱する21歳になるまでこれに従った。
妻はエディス・ブラット(Edith Mary Bratt 1889-1971)。彼女自身も両親のいない孤独の身であり、3歳年下のトールキンとは、彼女が19歳の時に下宿が同じであったことから知り合った。二人は程なくして恋仲となったが、前述の理由で一時断交。後見を脱したトールキンがエディスと連絡を取った時、エディスは別の男性と婚約していたが、再会後彼女は婚約を破棄して改めてトールキンと婚約した。またこの時、トールキンからの強い求めに応じて国教会からカトリックに改宗している。
トールキンとは大変に仲睦まじい夫婦として知られた。一方で二人の嗜好や教養が大きく隔たっていたことや、前述のカトリックへの改宗が遺恨になったこと、自身孤児であり子供の養育に自信を持てなかったといった事情が重なり、激しい夫婦喧嘩に発展することも少なくなかったという。
エディスとの第一子で長男がジョン(John Francis Reuel Tolkien 1917-2003)。第二子で次男がマイケル(Michael Hilary Reuel Tolkien 1920-1984)。第三子で三男がクリストファー(Christopher John Reuel Tolkien 1924-2020)。第四子で長女がプリシラ(Priscilla Mary Anne Reuel Tolkien 1929-)。
子供達の養育と住環境の両立のため、一家はしばしば転居を繰り返したが、おおむねオックスフォードのノースムア通りに住んだ。トールキンは子供たちが成長するのに合わせて創意豊かな物語を作っては語り聞かせ、そのいくつかは彼の代表的な著作へと発展した。
1939年に第二次大戦が勃発する頃には、息子達はみな就学のため家を離れていたが、戦争に伴い司祭修行中のジョンを除いて、マイケルは陸軍に、クリストファーは空軍に徴用された。
クリストファーの息子サイモン(Simon Mario Reuel Tolkien 1959-)はアメリカに渡って弁護士となり、法廷を舞台とした小説などを出版している。
トールキンの曾孫にあたるロイド(Royd Allan Reuel Tolkien 1969-)は、『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』で、オスギリアスのゴンドール兵士、また『ホビット 竜に奪われた王国』での、魔王を塚に葬る兵士としてカメオ出演した。
またロイドとその弟であるマイク(Michael Baker 1975-2015)は、ニュージーランド航空による『ホビット』版の機内安全ビデオに出演している。マイクは2015年にALS(筋萎縮性側索硬化症)で死去。ALS研究への募金を募るための、バケツの水をかぶるデモンストレーションに、マイクの代わりにロイドが挑戦している映像がある*3。
学者として †
母メーベルの個人指導で、言語に対する特別な才能を見出される。
1899年にキング・エドワード校に入学。一時借家の都合からランクの劣るセント・フィリップス校に転入するも、奨学金を勝ち得て1903年にキング・エドワード校に再転入する。そこでギリシャ・ラテン語、古英語、ウェールズ語、フィンランド語の文献や文字に出会ったことで、言語学・文献学(Philology)の道を志すようになった。
一度の失敗を経た後、1911年に奨学金を獲得してオックスフォード大学エグゼター学寮に入学。そこで比較言語学の大家ジョセフ・ライトに師事。本格的にウェールズ語やフィンランド語の習得を開始し、古英語の文献や、古ノルド語で書かれた北欧神話などにも親しんだ。1915年、極めて優れた成績である「優等」を収めて英語英文学の学位を取得。
第一次大戦の終結後、オックスフォードに戻ったトールキンは、当時UからZまでの部分が未完成であった『オックスフォード英語辞典(OED)』の編集スタッフに加わる。これが学者としての最初の仕事となった。この作業で、トールキンはその学識を高く評価される。
1920年、リーズ大学の講師の職を得てリーズに転居。1924年には32歳の若さでリーズ大学の英語学教授(これはトールキンのために新設されたポストであった)に就任した。
1925年、母校オックスフォード大学ペンブローク学寮のアングロ・サクソン語教授の職を得て、オックスフォードに戻る。1945年からは同大学マートン学寮の英語英文学教授となる。以後、1959年に引退するまで教授職にあった。
そこで学部のカリキュラム改革などに手腕を発揮。研究者としては『ベオウルフ』『サー・ガヴェインと緑の騎士』『パール』の研究などで有名。特に『ベオウルフ』が文学的に再評価されるきっかけになったことの一つに、トールキンの研究活動があったと言われている。教育者として、講義における学生からの人気も非常に高かった。
一方で完璧主義者であったことと、教育活動や創作活動などに時間を取られたせいで、学者として発表した著作は少ない。
引退後の1972年には英国よりCBE爵位を授与され、またオックスフォード大学からは名誉文学博士号を授与された。
作家として †
キング・エドワード校に在学中、3人の友人とT.C.B.S.という文学クラブを作る。だが彼らは第一次大戦に出征し、4人のうち2人が戦死している。トールキンは塹壕熱で帰国。その療養中より、後の『シルマリルの物語』の原点となる物語を書き始めている。
オックスフォード大学では、C・S・ルイスも所属するインクリングズと呼ばれるサークルに在籍し、仲間内で互いの作品の批評を行っていた。
少年期から言語に対する特異な興味と才能があり、自分の独自の言語を作る遊びをしていて、それが後のエルフ語を始めとする様々な言語となり、またこの言語を使う種族の歴史として、独自の神話体系を作っていった。敬虔なクリスチャンであったトールキンは、こうして“世界”を作ることを「偉大なる神の模倣をした“準創造”」ととらえていた。また自分は物語を「考えている」のではなく、「記録者として見つけ出し、描き出している」ととらえることを好んだ。さらにノルマンコンクエストによって、母国イギリス古来の伝承、伝来が破壊されたことを嘆いていたトールキンは、自分の神話体系を、「現代の歴史に繫がる、イギリス古来の神話、伝承」としてとらえられることを望んだ。
これら自分の神話体系をバックグラウンドにして、自分の子供のために子供向けの物語『ホビットの冒険』を書いたがそれが出版社の目に留まり、出版される。これが好評のためその続編を書き始めるが、それがどんどん壮大になり、神話体系がより深く組み込まれたのが『指輪物語』である。
その後、『ホビットの冒険』『指輪物語』のバックグラウンドとなった独自の神話体系を編集、出版しようとしたが、その前に他界。
死後4年後に息子のクリストファー・トールキンによって遺稿が纏められ、『シルマリルの物語』として出版された。さらに遺稿を再編集して解説を追加した『The Children of Húrin』『Beren and Lúthien(ベレンとルーシエン)』『The Fall of Gondolin』も、クリストファーの手によって完成され、出版されている。
現在、『ホビットの冒険』『指輪物語』の権利はMiddle-earth Enterprisesが、その他の作品の権利はTolkien Estateが有している。
作品にまつわるエピソード †
- 寓意嫌い
- トールキンは寓意的な作品を嫌っており、自分の作品が何かの寓意として書かれていると思われることも好まなかった。(一つの指輪の項目も参照)
『指輪物語』のことわりがきでは以下のように述べている。
だがトールキンは全く寓意を使用しなかったわけではなく、作品の説明を行う際などに寓意的な表現を使うことはあった。また『ニグルの木の葉』は、完璧主義ゆえの遅筆と、芸術家に対する神の世界における救済という、トールキンの個人的状況と宗教的思想の影響がはっきりと現れている、彼にしては珍しい寓話色の濃い作品である。もちろん、寓意と物語は真実の中のどこかで交わりながら、収束しているのです。(Of course, Allegory and Story converge, meeting somewhere in Truth.)*5という言葉も残している。わたしは、事実であれ、作為であれ、読者の考えや経験に応じてさまざまな適応性を持つ歴史のほうがずっと好きである。わたしには、「適応性」と「寓意」とを混合しているむきが多いように思われるのだが、一方は読者の自由な読み方に任され、他方は著者の意図的な支配に委ねられるものである。
I much prefer history – true or feigned– with its varied applicability to the thought and experience of readers. I think that many confuse applicability with allegory, but the one resides in the freedom of the reader, and the other in the purposed domination of the author. *4
- 戦争の記憶
- トールキンは二度の世界大戦を経験した。わけでも第一次世界大戦では通信将校として従軍し、ソンムの戦い(Wikipedia:ソンムの戦い)で塹壕戦を戦っている。この時トールキン自身は奇跡的に生還したものの、それぞれ別の戦場に送られていた当時の親友達のほとんどを失ってしまった。後にトールキンは青年時代、一九一四年の戦争に遭遇した経験は、一九三九年およびそれに続く数年に経験されたことにくらべ、けっしてその怖ろしさにおいて劣ってはいない*6と述べており、晩年まで戦争の悪夢に苦しめられた。
この経験が五軍の合戦や指輪戦争といった多くの犠牲者を出す戦争描写に部分的に反映されていると考えられる。またサムワイズ・ギャムジーは、将校であったトールキンが知り合った兵卒や従卒兵達がモデルになっているという(サムワイズ・ギャムジー#備考も参照)。
- 木々を愛する
- トールキンは樹木をたいへん愛していた。幼少期には木に話しかけることもあり、誰もが自分と同じようには木々を愛していないと知った時には悲しんだという。成長してからも木々と触れ合うことを続け、生前最後に撮られたトールキンの写真もオックスフォードの大木の傍らに立って憩う姿のものであった。
この木への親愛の情と、木に加えられる心ない危害への悲しみが、エントの存在やヤヴァンナによるその創造のエピソードにつながったとされる。
- アトランティス・コンプレックス
- 自分が水没するアトランティスにいて大波に飲み込まれるという悪夢を子供の頃から繰り返し見ており、トールキンはそれを「アトランティス・コンプレックス」と呼んでいた。ヌーメノールとその没落の物語はこの悪夢を基にして生まれた。この物語を書いてからトールキンは悪夢を見なくなったという。
- 悪筆
- ミミズがのたくったようなと形容されるたいへんな悪筆であり、執筆の興が乗れば乗るほどその程度は甚だしくなっていった。そのため、後にトールキンの遺稿の整理を引き受けた息子のクリストファーは、手書き原稿の判読に大いに苦慮するはめになり、しばしば「判読不能」との判断を下さざるを得なかった。
作品中でビルボ・バギンズが悪筆と設定されているのは、このような自らの癖を幾分か反映させたものと考えられる(一方でフロドの筆跡は端正であり、これはクリストファーの反映と考えられる)。
ただし汚い字しか書けなかったわけではなく、その気になれば装飾的なカリグラフィーを描くことができた。さらに『サンタ・クロースからの手紙』では、登場人物の性格に合わせて複数の筆跡を書き分けるといった芸当も見せている。
- ファンとの文通
- トールキンは可能な限りファンレターに目を通し、返事を書くことを好んだ。特に中つ国の世界に関する質問があると喜び、質問への答えを考察して詳細な返事をしたためることもしばしばだった。この返答のための考察に時間を費やしたことが、『シルマリルの物語』の完成を遅らせた一因ともなった。そうした手紙の写しは『The Letters of J.R.R.Tolkien』(トールキン書簡集)に収録されている。
このファンとの文通は思わぬ展開も生んだ。アメリカで『指輪物語』の海賊版が出版された時、トールキンはそれが不当なものであり購入を控えるよう要請するメモをファンへの手紙に付け加えた。すると、この手紙を受け取ったファンの有志が中心となって出版社や書店に対する働きかけが起こり、最終的に海賊版の出版社が謝罪して販売を取り止める事態となった。
イラストレーション †
少年時代からスケッチや水彩画に親しみ、自身の作品にまつわるイラストを多く残している。主に風景画を得意とし、一方で人物画は苦手だった。
『ホビットの冒険』『指輪物語』いずれもトールキン自身が挿絵と装丁を手がける計画が出版前に持ち上がっていたが、諸般の事情により発表時には実現しなかった。
『ブリスさん』『サンタ・クロースからの手紙』のように、自分の子供たちのために描いた趣向を凝らした絵本(絵物語)も残している。
肉声・インタビュー音声など †
プロジェクト・ノースムア (Project Northmoor) †
1930年から1947年までトールキンが住んでいた旧宅が売りに出されることになったと2020年に発表された。この建物を守るため、映画『ロード・オブ・ザ・リング』『ホビット』に出演したキャスト(イアン・マッケラン、ジョン・リス=デイヴィス、マーティン・フリーマン、アニー・レノックスらの名が出ている)他がクラウドファンディングで資金(目標金額600万ドル)を集めて買い取り、文学センターに改装するという計画“プロジェクト・ノースムア”を立てて参加者を募っている(ノースムアはこの家があるオックスフォードの地名)。なおトールキンは生前にこの家を手放しているため、プロジェクト・ノースムアとTolkien Estateは関係がない。
- Project Northmoor - Save Tolkien's Home
- CNN.co.jp「ロード・オブ・ザ・リング」出演者が資金集め、トールキン氏宅の購入目指す 英
- Google マップによる、該当するトールキンの家とその周辺の地図
著作・関連作 †
日本語訳されている主な中つ国関連作品の著書 †
日本語訳されていない主な中つ国関連作品の著書 †
- 『The History of Middle-earth(中つ国の歴史)』
- 『The Children of Húrin(フーリンの子どもたち)』
- 『The Fall of Gondolin (ゴンドリンの陥落)』
日本語訳されていないその他の主な著書 †
日本語訳されているその他の著書 †
- 『妖精物語について』
- 『妖精物語の国へ』
- 『サー・ガウェインと緑の騎士 トールキンのアーサー王物語』
- 『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』
- 『ブリスさん』
- 『ニグルの木の葉』
- 『トム・ボンバディルの冒険』
- 『仔犬のローヴァーの冒険』
- 『サンタ・クロースからの手紙』
- 『星をのんだ かじや』
- 『トールキンのクレルヴォ物語〈注釈版〉』
- 『トールキンのシグルズとグズルーンの伝説〈注釈版〉』
- 『トールキンのベーオウルフ物語〈注釈版〉』
- 『トールキンのアーサー王最後の物語〈注釈版〉』
書簡 †
画集 †
- 『Pictures by J.R.R. Tolkien』
- 『トールキンによる『指輪物語』の図像世界』
- 『トールキンのホビットイメージ図鑑』
- 『The Art of The Lord of the Rings by J.R.R. Tolkien』
伝記 †
- 『J.R.R.トールキン 或る伝記』
- 『トールキン『指輪物語』を創った男』
- 『インクリングズ―ルイス、トールキン、ウィリアムズとその友人たち』
- 『トールキンとC・S・ルイス友情物語―ファンタジー誕生の軌跡』
伝記映画 †
関連書籍 †
外部リンク †
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