オドリアグ

概要

カテゴリー種族
スペルOdhriag

解説

ICEの設定に登場する東夷の一派。エレド・リスイの北側にある、戦川(Warwater)とスルベキ川(Surubeki)に挟まれた土地を領土とする民。
近隣に住むアスドリアグヴァリアグと同じく、イオリアグ(Ioriag)という民を共通の祖先に持つ。しかし他の二氏族とは違い、イオリアグよりもさらに東に住むアハール人(Ahar)の血と伝統も受け継いでおり、他の東夷とは異質な独特の文化を持っている。例えば、リューンの東夷の中で唯一体系化された法律を持つ。また、早くから文字を使用していたため、読み書きや商いに長け、石や金属の加工技術にも優れている。
外界の影響からの独立を最も重んじており、侵入してくる隣人から土地を守るために戦う。

歴史

第二紀の1100年頃、東方の大河タラスラント(Talathrant)の岸辺のリュコリス(Rycolis)やアカナ(Acana)に住んでいた民オティアッシ(Otyassi)は、入植してきたヌーメノール人に追われ、故国を捨てて西方へ移動した。エレド・ハルマル(Ered Harmal)の東麓を北に向かい、イオリアグ(Ioriag)の土地ヌラド(Nurad)に入った。

族長マハルメク(Muhlmek)は聡明な指導者で、生き残りを図るためにイオリアグの有力部族であるアイヴリアグ(Aivriags)に接近した。二人の族長は協議の末一つの連合体を形成することにして、夕暮れの族(Dusk tribes)を意味するオドリアグの民となった。三日目の夕刻にその協議が終わったことからこの名が選ばれた。
彼らはハンドヴァリアグとの戦いに敗れ、第二紀の1600年頃にウルガスの領土を越えて、灰の山脈と湖の間にあるガソドの平原に定着した。
東からは彼ら以外にも人間の集団が絶え間なく押し寄せ、しばしば住み慣れた土地を移動する必要性に迫られるほどの脅威となったが、彼らは決して自らの土地を離れようとはしなかった。

オドリアグの国はモルドールに隣接してるため、サウロンの召使いは絶えず彼らを冥王の影響下に置こうと試みてきたが、彼らはその試みにも一貫して抵抗し続けた。ヌーメノールから帰還した直後の3319年頃から、サウロンは最後の同盟との戦いに備えるため東夷の高僧ロクソール(Lokuthor)に命じ、リューン中の東夷から軍勢を招集し始めた。オドリアグもまたその対象となったが、独立心の強い彼らは3430年になってもサウロンへの忠誠を拒み続けた。

ロクソールは首長カサグル・ホトゥン(Kasagul Hotun)に捕らわれたが、その指に束縛の指輪(Binding Ring)を嵌めて体を乗っ取り、オドリアグを配下にしようとした。だがカサグルは強靭な意志で支配に抵抗し、その息子コルグル・ホトゥン(Khorgul Hotun)は諸部族を束ね、サウロンと戦う姿勢を見せた。最終的にロクソールは諦め、族長から指輪を外して逃れようとした。これに怒ったサウロンは二人のいた寺院を破壊し、押し潰して殺した。

サウロンが力を失って姿を消した後、コルグルはオティアッシの祖先が作った法規を体系化し、オドリアグの全ての民に対して施行した。また、この頃からダゴルラドの東側に住む北国人の入植者イブノティシウダ(Ibnotithiuda)と交易をはじめ、しばしば盟友としてサガスの盗賊を追い払うために戦った。
5世紀ごろから、東に隣接するウルガスの部族の一部がオドリアグの土地に侵入し始めた。北国人の町ブルフ・アルメンリク(Burh Armenrik)が破壊されたが、両者は協力してウルガスをさらに西方へ追い払った。

1250年頃、地域で頻発する紛争の沈静化を名目に、ミナルカール率いるゴンドール軍がリューン南部に侵攻し、ガソドの平野に入った。
ミナルカールとヴィドゥガヴィアは、オドリアグがゴンドールリョヴァニオンの威信に服するよう要求した。オドリアグはリョヴァニオンへ侵入したことはなかったが、ヴィドゥガヴィアはサガスと同じ遊牧民である彼らを信用していなかった。13世紀前にサウロンを拒否した時と同じく、聡明なオドリアグは西軍が土地を通過するのを拒否した。
激しい戦いが起こり、オドリアグは大きな損害を被った。
いくつかの聖地が破壊され、多くの者がエレド・リスイの谷間に避難した。オドリアグはこの損害から立ち直るのに長い時を要した。
また、長年友人として接し、他の東夷の襲撃から守ってきたにもかかわらず、彼らをゴンドールの手から助けようとしなかったイブノティシウダに対して不信感を抱くようになった。

1250年頃から、平原の神ケルカッスク(Kerkassk)の化身を名乗る人物が東夷の民の前に現れるようになった。その正体はサウロンの召使の一人であるネモル(Nemol)という魔術師だった。彼はケルカッスクを強欲な西方人から平原の人々を庇護する守護神と騙り、布教活動を続けた。多くの者がその教えに耳を傾け、オドリアグも少なからず影響を受けた。

1750年頃から、リューンの湖一帯はミストランド(Mistrand)の氏族イガス(Igath)の宗主下に置かれ、オドリアグも馬車族の連合に組み込まれた。馬車族は1851年からリョヴァニオンへの侵攻を開始するが、オドリアグは戦いに消極的で、かつての同盟者であるイブノティシウダの虐殺に加わるのを拒んだが、逆に彼らを助けることも、他の氏族を止めることもしなかった。

出典

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